ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

アレン・スティール「キャプテン・フューチャー最初の事件」

 

※本記事は東京創元社の発売前ゲラ先読み企画に投稿した感想文を一部加筆修正したものです。ストーリー上のネタバレには極力触れないように心掛けているのですが、念のためご注意ください。

 

 

 

 

 

 

安心してください、みんないます。みんなです。

 

 

そしてこんな時代でさえ――こんな時代だからこそ――ヒーローが必要なのだ。キャプテン・フューチャーと呼べる人間が

 

エピローグで発せられるこのセリフに、不覚にも目頭が熱くなりました。原書が刊行された2017年のアメリカというのも不安や混乱に覆われた社会であったのでしょうが、2020年のいま、世界全体がより大きな不安とより大きな混乱に覆われているこの時代にこそ、まさにキャプテン・フューチャーと呼べるヒーローが求められるのでしょう……。

 

キャプテン・フューチャーというシリーズは(その名に反して)いつもどこか懐かしさを感じさせるものでした。野田昌宏氏によって精力的に早川書房から邦訳されていた時代にも、それは懐かしいアメリカのスペースオペラでありましたし、その後アニメ化が成され復刊され、東京創元社からキャプテン・フューチャー全集が刊行されたときも、常にその世界とキャラクター達はやはりなにか懐かしさを、ノスタルジーをくすぐるものでした。古き良きもの、そして決して古びないもの。大勢のファンや影響を受けたクリエイターたちの「キャプテン・フューチャー観」というものも、そのような感慨によって語られることが多かったように思います。代表的な例がアレン・スティールの短編「キャプテン・フューチャーの死」です。

 

そのアレン・スティールによる新たなるキャプテン・フューチャーの物語「キャプテン・フューチャー最初の事件」は単純な続編や外伝、オマージュではなく実に大胆な再構築を行ったリブート作品です。現代の読者に向けた現代のSF、現代のテクノロジーのその先にある未来社会を描いた一冊。太陽系文明の成り立ちや、個々のキャラクターのアイデンティティは正典のオリジナル設定から全て一新されています。そう聞くと一抹の不安を覚える方もいるかもしれません。なのでもう一度同じことを書きますが、

 

安心してください、みんないます。みんなです。

 

キャプテン・フューチャーことカーティス・ニュートンの生い立ちは、これまでにも様々に語られてきました。それこそ "キャプテン・フューチャーの最初の事件" も「カーティス・ニュートンはいかにしてキャプテン・フューチャーになったか」のタイトルで発表されています*1が、本書ではそれとは異なる世界で起きた異なる事件の、異なる顛末を描いています。ではリブート作品ならそれまでの既存の設定や物語は忘れたほうがいいのかといえば、そんなことは無いでしょう。むしろこれまでのキャプテン・フューチャーの物語を、フューチャーメンをはじめとするこれまでのキャラクター達をよく知っている人ならばこそ、それを忘れずに本書に向き合うべきだと(個人的には)思います。リセットではなくリブート、SFの新しい波は常に固い大地の上を流れるものですから。

 

主人公カーティス・ニュートン、若干二十歳のカートはまだまだ未熟な青年です。女の子との上手な付き合い方もお酒の飲み方も満足に知りません。グラッグやオットー、そしてサイモン・ライトさえも、ひとりひとりのアイデンティティに大胆な再構築が行われたうえで、それぞれ相応の未熟さを併せ持っています。それでも、カートの持つ秀でた正義感やグラッグの強固な忠誠心、オットーの秘めたる自省心やサイモン・ライトの持つ限りない慈愛は且つてのフューチャーメンと少しも変わることがありません。懐かしい友人に再会したような喜びを、忘れかけていたノスタルジーを、もういちど刺激してくれます。ジョオン・ランドールエズラ・ガーニー、魅力ある頼もしい仲間も健在で、そして魅力ある恐るべき仇敵たちもまた……

 

月犬のイイクと隕石モグラのオーグ、二匹のマスコットも無論元気な姿を見せてくれます。本書では新たに設定されたグラッグとオットーのキャラクター性を補完あるいは補強するかのような役割が振られているようで、あらためてエドモンド・ハミルトンの創造したキャラクター配置、オリジナルシリーズが持っていたポテンシャルを再発見するかのよう。やはりリスペクトあってのリブートですね*2

 

ヴィクター・コルボ、ロジャーとエレインのニュートン夫妻を無慈悲にも殺害した悪漢に若きカーティス・ニュートンが復讐を加える。正典では果たせなかった行為*3があらためて語られるのが本書のストーリーなのですが、そこで描き出されるものはひとりの英雄が悪をくじき正義と善行を成す、古き良き宇宙SFの世界です。作品世界の基本設定や技術レベル、社会形態がどれほど改められようとも、その中核にあるものは決して古びない。わたしたちがヒーローに対して懐かしさを覚えるのは、遠い星や未来の宇宙に居るヒーローたちが、本当はわたしたち自身のこころの中、誰しもが持っているなにかを懐かしむ思いとノスタルジックな感傷の中に、決して古びることなく在り続けているからなのかもしれません。それはカーティス・ニュートンの中に幼き日のキャプテン・フューチャーが変わらず在り続けていたのと、たぶん同じことでしょう。ときには忘れ、たまには照れくさく感じることはあっても、且つて夢に描き思いを馳せたヒーローは、いまこの時に私たちの前に帰って来ました。これから始まる新しい冒険と無限の可能性を指し示して。

 

本書ではじめてキャプテン・フューチャーに接する人も、きっと同じような思いを共有できると考えます。たとえはじめて目にするヒーローであっても、そこで抽出されるヒロイズムというものは、誰しもが且つて胸に描いた懐かしいものでしょうから。誰かを見たとき、何かを見たときにそれをヒーローだと感じるのは、実は自分自身のこころの在り様であって、ヒーローはいつもそこからやってくるのです。たぶん。

 

現実がどれほど不安と混乱に満ちた世界に変貌してしまっても、それでもひとりひとりの心の中、人のノスタルジーの内側に、変わらずヒーローが在ることを願います。それこそが世界を未来へと導く、皆のキャプテンなのでしょうから。

 

こんな時代だからこそ、キャプテン・フューチャーが必要なのです。

 

COVID-19禍の世界にて記す。果たして自分自身は未来に行けるのだろうか?

 

*1:全集第11巻収録 https://abogard.hatenadiary.jp/entry/20070217/1171720150

*2:捕捉するとグラッグとイイクはお互いよく似た同類が沢山いる中での際立った個体で、オットーとオーグは他に同類の無い孤独な存在同士であるという、(おそらく)メンタリティ上の共通性が付与されている

*3:なにしろ正典のヴィクター・コルボはあっという間にグラッグとオットーの手によって文字通り八つ裂きにされてしまったので