ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

日本SF作家クラブ編「恐怖とSF」

日本SF作家クラブのアンソロジー、6冊目。既読は以下に。

 

 

 

 

このシリーズの感想は全作上げる重いのと印象に残った分だけの軽いのとに別れますが、今回は重い方です。賢明な方ならそろそろ法則性に気づかれるかと思います。blueskyにポストしたものをベースに修正入れつつ。

井上雅彦会長ならでは、の一冊ですか。前書きでは未知と未来に対する恐怖について触れられ、やはりというかなんというかラヴクラフト的なものを感じます。知らないものは怖いもの、です。読んだ順番は若干掲載順とはズレるんですが、ここでは掲載順にまとめていきます。

 

・梨「#」 
初めて読んだ人だけれど、ホラー界では小説のみならずにいろいろ活躍されてる方だそうで、自分自身の不明さや立ち位置について考えてしまう(苦笑)。全世界に配置された「幽霊を記録する機械」レトロスに記録されたアーカイブが淡々と記述される流れなんだけれど、よく読むとその事象が観測された日時がどんどん進んで未来になって行って、それでも観測された事象はだいぶ現代的で「未来の幽霊」のようなものは出て来ない(スカイツリーが解体される程度の未来は出てくる)。なぜか?最後に記録された「証言」が、この機械レトロスが設置された意味と「幽霊」とはなにか、この世界はなんなのかという謎にいちおうの答えは出す。けれどもそれはメタ視的な意味で読者の不安を煽るもの、だ。
記録の箇条書きみたいなところから始まる作品だからか、行頭の1字開けをやっていない。ウェブではたまに見るけど紙の本でこういう形の小説を読むのは初めてかもしれない。

 

柴田勝家「タタリ・エクスペリメント」
人の憎悪、恨みの感情を誘引し他者を死に至らしめる、通称「タタリ細菌」なるものが発見される。当初はオカルトのキワモノ的な扱いだったそれが、人々のディスカッションの中から発生した実験によって実効性が確認され、広く世の中に蔓延していく。やがて人々は(まるでパンデミック最盛期のように)他者との距離を取って平穏な社会を構築していくようになるが、なにも憎悪や恨みを有する物は人間だけとは限らないのだった。ストーリーだけ抜き出すとだいぶ荒唐無稽な力業のように感じるけれど、本当に技術(ワザ)が振るわれているのは落ち着いた筆致による淡々とした文体だろう。近年「異常論文」と称されるスタイルの作品で、その概念が提唱されたのはこの作者の短編由来でもあるのだけれど、実際には論文(学術論文)の体裁ではないんだよな。「論説文」というかなんというか、そういうスタイル。祟りを科学的に解明していくところよりもむしろ、人間の在り様が変貌を遂げるところにSF味を感じる。

 

・カリベユウキ「始まりと終わりのない生き物」
インターネットの深層部に存在する仮想空間にVRダイブし、そこで「幽霊」に対処する人の話。ある種の社会不適合な少年少女を秘密の公的機関が強制徴募し使い捨てのコマとして利用するとか、その「幽霊」なるものも実はかつての先任従事者だったとか、ある種のあー「懐かしさ」と言っておきましょうか。を感じるのは、その深層仮想空間が「空間X」というその、それはなんか懐かしさが過ぎない?ってネーミングが成されてるからだろうか。ともかく、空間Xに深堀りすぎて人間を捨てた「幽霊」が求めるのは人間の身体を手に入れ再び実態と化すことであり、主人公はその望みをかなえるために「幽霊」と合一し新たな存在として世界に一歩を踏み出す。やっぱりある種の懐かしさを感じる。

 

ここまでの3本が「幽霊のゆくえ」と章立てられている(これは当初からのテーマ別ではなく入稿後に編集部の方で割り振ってるはず)。霊的なモノに対する科学的アプローチ、とでも纏められるだろうか。どれもSFしてますね。

 

池澤春菜「幻孔」
脳に電極を挿入し量子的に脳の活動をあー活性化というかまあその「量子的にアレする」実験の副作用?として発生する「幻の孔」の話。題材としてはトライポフォビア(集合体恐怖症)なのだけれど、手足を失った人が既に無いはずの手足に痛みを感じる「幻肢痛」とは逆に、脳の活動が拡張されたことで「本来は無いはずの孔を身体に感じる」話か。量子で穴と言えば「二重スリット実験」だけれど、この幻の孔にも可能性の揺らぎは生じて、そこから立ち上がってくるビジョンはなかなか強いものではあります。様々な可能性を包括して個人のいまとここは確定されるのだなあという、SF。
あんまり変な入れ込みをするものじゃないけれど、このアンソロジーシリーズで既刊に収録されている「祖母の揺籃」「I traviati 最後の女優」と同様に、著者とキャラクターを過度に(そして意図的に)同一視して読んでいる気がする……。「著者初のホラー」とされてはいるけれど、以前SFマガジンに掲載された美容SF「秘臓」はホラーっぽかったし、柿村イサナ名義で発表された「凶音」もホラーっぽかったよな、とは思います。

この話は「ブツブツしてるものは怖いよな」という生理的な恐怖感を描いてるんだけれど、自分が感じたのは物事を選択し決定することに対する不安、恐怖、そういうものでした。自分の選択は正しかったのか、もしも違う選択をしたら自分はどうなっていたのか、そういう「可能性の恐怖」ですかね。そして最後に「母性」が強固に提示されるのがちょっと謎だったんだけど、それは全然違うところで得心が行きました。

やっぱり著者自身と重ね合わせちゃいますよ(´・ω・`)

 

菅浩江「あなたも痛みを」
AIに「痛み」を学ばせるため、日々地下室でマネキン様の筐体に加虐行為を続ける主人公。などと書くとだいぶヤバそうだけれど、何か全体に漂う耽美な雰囲気が妖しい。同僚との対話、AIとの対話。そこで話されるのは「痛み」とはなにか?その先にあるものはなにか?という哲学的な問いかけである。やがて主人公が少年期にDV被害を受けてきた過去が明らかにされ、信じていた同僚が社外に機密を暴露し、物語は急展開する。社会的・物理的な死を前にして、ふたりが選んだ決断は――
なんか「女性受けが良さそうだな」などと感じるのも自分の偏見なんだろうけれど、意識は自由でも他のすべての点でまったく自由がないロボットに拷問を加え続ける研究者という構図は、やっぱり女性受けが良さそうな気がします(´・ω・`)←偏見

 

この2本が「身体のゆらぎ」の章立てとなる。身体が揺らぐと痛いというのは、人の人生が10年ずつ積み重なるたびに実感する恐怖ではある。

 

・坂永雄一「ロトカ・ヴォルテラの獣」
夏の夜、海岸沿いの街で繰り広げられるひとりの怪物と少年たちとの死闘。幼なじみ、友人、級友であった中学生たちは、怪物化した少女によって次々に屠られていく。怪物の正体は何か?何が少女に寄生し変貌せしめたのか、というストーリーの合間に、やや暢気な口調で寄生生物と捕食動物、宿主との関係性についての解説がインサートされるのだけれど、微妙に信用し難いソレの正体(解説者の正体)がいかにもイマドキだった。登場人物のネーミングは南総里見八犬伝からとられているようで(八犬伝そのままではない)、全体的に千葉県のイメージがあるアクションホラー。最後に明かされる怪物の正体もうん、やはりこれは八犬伝なんだろうなあ。こういうのは好きです。

 

・小田雅久仁「戦場番号七九六三」
スティーブン・キングに「霧」という名作があって、これは映画の方も名作です。「スカイライン ―征服― 」という映画があって、これは原作というのはないんだけど、まあヘンな映画だ。突前霧の中から現れた謎の怪物(外宇宙からの異星種族)に襲われ、憑依され怪物化した主人公が意識の中にわずかに残った妻の記憶をもとにいまから助けるぞエンド!という、その2つの作品を足したような話だなあという印象。途中で挿入される異星種族の歴史が、ちょっと長い。この人の作品、先日「幻想と怪奇 幻影の街 ショートショート・カーニヴァル」で読んだのも奥さん題材だったな。なんだろうな?

 

飛鳥部勝則「我ら羆の群れ」
ホラーミステリで名を馳せた著者らしい、非常にテクニカルな作品。姉を羆に殺された少年と老いたマタギによる狩猟小説のような導入から、少年は実は少女であるし、案外あっさり討たれる羆は羆ではないし、少女はアーサー王だしで中盤から展開はがらりとSFにシフトし、だいぶグロテスクなホラーに落着する。短編ではあるけれど本格ミステリのルール通りに本文中には手掛かりが散布され、本文中でしっかりと回収される。ある種のお手本のようにも読める一作。伏線回収が「語り」に偏重しちゃうのは、致し方ないかなあ。『2084年のSF』に収録されている池澤春菜『祖母の揺籃』と対に読むと面白いかも。

 

ここまでの3本が「浸食する獣」の章立て。得てして怪物とは人間であるけれど、どれも人間が怪物に変貌する話だ。ひとは外部から浸食する何物かによって獣になる。そういう恐怖。

 

・イーライ・K・P・ウィリアム「フォトボマー」
この人については寡聞にして存じ上げなかった。また、この章は「進化する人怖(ひとこわ)」と銘打たれているんだけれど「人怖は厳密にはホラーではないと断ずる否定派」なんてことも書かれていて、どうも自分はいま現在のホラー小説や怪談の潮流を全然知らないんだなとあらためて思わされる。そもそも「人怖」ってなに(´・ω・`)

本作自体はネット上で知り合った男性「響」とビジネスを立ち上げた主人公の女性「レナ」が、段々とビジネス以上の関係に深まっていく一方で、響の正体がある種のストーカーではないのか?という疑念が高まり、やがてそれがストーカーどころかもっと異常なSF的な存在であることが暴かれていくダイナミズムが良かった。ラストは何か女性向けのホラーコミック的なアトモスフィアを感じます。秋田書店的というかなんというか。

 

平山夢明「幸せのはきだめ」
タイトルには "blissPit://moth" とルビが振られる。連続殺人者と何者かのチャットによる、殺人者の心中の浮き沈みが語られる一方で、刑事と妹のふたりの生活があっけなく瓦解する様が綴られる。なんの手掛かりも無くただ体格だけが変化する犯人の秘密は、妹を殺され激昂した刑事が犯人の手に落ちた際に明かされる。肉体に加えられる虐待はだいぶグロテスクで、このあたりは作者のお手の物だろう。犯人をコントロールしていた何者かの正体がAIによる疑似人格であり、犯行発覚後ただちに消去されたデータは一体何のために収集されていたのか、という謎解きは最後に明かされ、やはりグロテスクだ。

 

この2本が「進化する人怖」となります。人怖って結局なんなんだろう?「結局のところ怖いのは人間だ」というのはむしろよくあることで、「人怖はホラーではない」とする否定意見の方が、実はよく分からない。

 

小中千昭「現代の遭遇者 Modern Encounter 」
都市伝説系動画配信者の前に現れる、エイリアンと遭遇したと主張する人物。直接会い話を聞き、撮影された動画を受け取った主人公が確認のため再度連絡を取ろうとすると、その存在は完全に消失していて……。誰かに話すと自分が消える(かも知れない)という恐怖譚ではあるものの、本文の多くはUFO(最近ではUAPとか言うそうな)やエイリアンの都市伝説事情を解説するパートに割かれる。また主人公が公務員からドロップアウトした専業動画配信者なので、チャンネル登録者数とか投稿規約の変更などによる「収益」について常に漠然と不安を抱いているという図式は今風だなあと。YoutubeTiktokGoogleも全部実名で出しているのは、実名じゃないとむしろ話の実感を損なうからという事情もあるんでしょうね。

 

・空木春宵「牛の首.vue」
このアンソロジーに掲載される作品ではいつも変わった技法というか記法を用いているけれど、今回はプログラム言語のようです。ようです、というのはそっち方面全然詳しくないからで、チャットログやSNS上の投稿、AIとのやりとりなどから浮かび上がってくる「牛の首」について語った者が次々と「実は過去に死んでいた」現象。動画配信者として実話怪談を語る主人公の周囲では現実の世界にゆらぎが生じ……。なぜプログラム記法なのか、というのはちゃんと意味があり、それが恐怖につながるものとなっている。この話ひとつだけ問題を挙げるとすれば「牛の首」が一体どういう話なのか、全ぜ

プログラムじゃなくてプロンプト、なんですね。本書は「AIとSF3」でもないのに直球でAIネタが多いぞ(´・ω・`)

 

牧野修「初恋」
切なくて悲しいお話だ。無論怖さはあるけれど、そっちの方が先に立つ。夢がかなったとき、それは現実なのか?夢じゃないのか?なにごとも叶わない方が現実味(リアリティ)がある、という図式を導いてしまう程度には、自分はこういう話に弱いんだろうなあ、などと思う。
ストーリーについて全然触れられない程度には弱い(´・ω・`)

 

この3本が「物語の魔」の章。語りは騙り、虚構は恐慌というわけです。

 

・溝渕久美子「へルン先生の粉」
今日(9月29日)から朝ドラ「ばけばけ」が始まったそうだけど、へルン先生と言えばあの人だ。幼少時にラフカディオ・ハーンから譲り受けたゾンビパウダーを元にってなんで小泉八雲がそんなものをもっているかというとこの作品の世界ではハイチで普通にゾンビが安価な労働力として使われてるからなんですな。へルン先生の記憶はあくまで幼少時の思い出で、メインとなるのは昭和初期、日本の植民地統治が行われている台湾を舞台に、糖蜜から高エネルギー燃料を生成する企業が安価な労働力としてゾンビを投入する、という筋立て。屍者の帝国主義!当初は土葬された遺体を使用していたものの右肩上がりの生産目標はたちまちゾンビ不足の状況を呈し、偽の反乱鎮圧を名目に少数民族の虐殺へとエスカレートする。ゾンビ導入のキーマンであった主人公は、本省人の妻がなにか秘密を抱いていると気づき……。
この話は視点人物となる主人公の1人称で書かれているのだけれど、高圧的で差別的な、感情移入を拒むような筆致で進めて最後にデッドエンドという流れが良かった。

 

・篠たまき「漏斗花(じょうごばな)」
タイトルはルビあり。前掲作からバトンを受け取るように、終戦直後の満州から話は始まる。漏斗のような花を通り抜けて故郷へと行き来する、幻想のような話。高天原の血を引く子。娘、孫。物語は時系列をシャッフルして進むけれど、ラストシーンではひとつの謎がグロテスクにそして愛情にあふれる形で解明され、幕が下りる。花を通り抜ける人たちはいなくなり、あとにはごく普通の片田舎の廃村が残されるのだろう。

 

この2本は「異貌の歴史」、オルタネイティブヒストリーか。どちらも日本の帝国主義時代を扱っている(アプローチの仕方はだいぶ違う)のは興味深い。

 

・久永実木彦「愛に落ちる」
愛と憎は似ている。というのは古くから語られることだけれど、やはり愛と憎は似ているのだ。天才の友人に根深い嫉妬を抱く主人公が多元宇宙の間隙に落ち、無限の落下を永遠に続ける地獄に生き続ける孤独。その果てに再会した友人との殺し合いは愛憎の二重螺旋を描く一瞬の邂逅となる。限られた道具を工夫し如何にして相手を殺すかという計画は、まるでデートプランを考える恋人のようでもある。この地獄が終わる時はあるのか。

 

・長谷川京「まなざし地獄のフォトグラム」
ある日突然、日常生活の中に極めて仏教的な地獄の様子が投影されるようになる。するとどうなる?この世は既に地獄であるけれど、生きとし生ける人々は地獄の様子に興味持ちを観察し、ルールを解読する。この先地獄に落ちると決まっている人ならば、いま地獄に落としてもいいよね?そういう社会を背景として語られるのは、地獄の光景の中から自分を捨てた母と妹を探し出すこと。必ずや地獄にいるであろうと信じ、信じたとおりにその姿を見つけ出せば、その先にあるのは……

無限。

 

この2本が「地獄にて」となる、キーワードは「終わらない」ということか。日々はルーチンの繰り返しだけれど、同じことを繰り返しても同じ結果を出し続けることが出来ないというのもまた、人であるなあと。

 

・斜線堂有紀「『無』公表会議」
「死後の世界は存在しない」ことを科学的に証明してしまった研究グループが、果たしてこの事実を公表するか否かを問うた会議の記録。メンバーは7名、音声記録の文字起こしという体を取っているので。本文はほぼ台詞というか会話のみで進んでいく。会議は直ちに紛糾し、暴力が振るわれ、次々にメンバーが死んで行き……

そして誰かが生き残った。果たして事実は公表されるのか、否か。

 

飛浩隆「開廟」
今日(10月4日)ネイキッドロフト横浜でやってた堺三保里見哲朗池澤春菜3名による「SF雑談」で「いま読むべき作品は、いま読むべき」という名言が飛び出したんだけど、この作品こそまさにいま読むべきだと思われる。数年後では受け止め方が変わっているだろう。排外主義を陰謀論で煽る主人公の老婆瞳子。その攻撃対象となるのは「破次元境界」を越えてやって来る移住知性体、「移住種」だ。移住種の言語をAIに解析させることによって地球文明は大きく発展し、変貌している社会。いま読むべきSF、いま読むべきホラー。瞳子の空虚な言葉で煽り立てられた大衆は移住種への暴行を拡大、過激化させ瞳子の身に起きた不可解な症状と、瞳子自身の置かれていた異様な立場の真実が明かされるとき、タイトルとは裏腹に廟の扉は閉じられる。いま読むべき一作。

 

・新名智「システム・プロンプト」
最後の収録作となるこちらが一番怖かった。しかもこれ小説じゃないんだ。AIに対するプロンプトが書かれていてつまり「命令」なわけですね。その合間に資料として提示されるメッセージやディスカッションはAIが世界を塗り替え、それに対する反発や暴動、破壊と死が溢れていることを示唆する。人間嫌いの人間と人間を装うAIとのセッションが実は……と視点をターンオーバーさせた先に現れるのは、いまここでこの本を読んでいるわたしは何者なのか?という問いかけであると同時に、ある種の行動を起こせと言う命令文でもある。そしてそれは、実にいまこの世界に自然に書かれている実にありふれた文字列なのだ。怖いよ。

 

最後の3本が「彼岸の果て」の章立てとなる。善悪の彼岸、人間の、人の間の断絶。そういうものを超えた先には何があるのか。


未知である。それこそが恐怖。なるほど……。


巻末の解説(井上雅彦による)は日本怪奇小説界隈とSFとの関係を歴史的に説くもの。資料性は高いと思う。

 

読みながら思っていたことなんだけど、SFの人が書いた作品とホラーの人が書いた作品になにか漠然と違いを感じます。上記「SF雑談」では「SFの人が書くとホラーになり、ホラーの人が書くとSFになる」というような解説がされてなるほどなあと思う。作家として越境するテーマを書くならばこそ、そこでは王道を志向するのかも知れませんね。あと俺最近のホラーや怪談を全然読めてませんね。最近のSFもなんですけどね。

 

とはいえ、SFとクリエイターとホラーのクリエイターが居並ぶ、ここは大層変わった収穫の出来るトウモロコシ畑でした。