ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

森薫「乙嫁語り」13巻

乙嫁語り 13 (ハルタコミックス)

乙嫁語り 13 (ハルタコミックス)

  • 作者:森 薫
  • 発売日: 2021/03/15
  • メディア: コミック
 

 カバー画は久しぶりに双子の乙嫁で、メインはスミスくんとタラスさんの帰り道の続きです。ライラとレイリのにぎやかなおもてなしと海への誘いは素敵なページだけれど、後半の道中はだんだんと物騒になって行き、遂にロシア軍と遭遇するにあたってスミスとタラスの旅はその途上で終わりを迎える。ボンベイを経由してイギリス本国に向かうにしても「退場」の空気は否めないし、「乙嫁語り」シリーズ全体が完結に向かって動いているのはひしひしと感じます。

どうにも明るいラストを想像できないのだけれど、それでも木彫りを始めるロステムの姿に、なにか希望めいたものを感じたくはなる。

 

しかしどう仕舞うんだろうなこの話。

松田未来・※Kome「夜光雲のサリッサ 06」

 

ホントに電書しか出てこなくなったなあamazonへのリンク。「夜光雲のサリッサ」はかなり意図的というか戦略的に紙の本と電子書籍で内容・価格等を変えてきているのであんまり混同させたくないのですが、自分が読んだのは紙本です。

さて前回から急速にスケールが広がった印象がありましたが、今巻ではスケールを広げたまま物語は急転直下、新規メンバーや新規機体の投入にもかかわらずウルティムムのコントロール下で遥かに強力化した「天翔体」の攻撃と、高度制限の急激な降下によってIOSSは敗北、解体の憂き目を見ます。ここからさらに逆転へとお話は展開していくのでしょうがさてどうなるのでしょうね?国連の信頼が瓦解した(しかし各国の枠組みはそのまま残される)世界というのも物騒なところではあり 。

この先の謎はマムがどういう人物なのか、外宇宙からやってくるオウムアムアはどうのように関わってくるのか、そういうところに焦点を当てていくのでしょうね。「天主」とウルティムムの関係も一枚岩ではなく、と…

久永実木彦「七十四秒の旋律と孤独」

 

七十四秒の旋律と孤独 (創元日本SF叢書)
 

 マ・フと呼ばれる人工知性と人間そして人間以外の知性とのかかわりを描いた作品集。表題作は第8回創元SF短編賞受賞作で、年刊日本SF傑作選の「行き先は特異点*1にも収録された作品を一部改稿したもの。それに加えて同一の世界ながら遥かな未来の時代を描いた連作短編「マ・フ クロニクル」からなる内容。ヒトの過ぎ去った時代に宇宙空間のヴォイド内で目覚めたマ・フ達のうち惑星Hに派遣された8人の個体の行く末を描いた「マ・フ クロニクル」のおだやかな流れと破滅と再生の円環はどこか「ヨコハマ買い出し紀行」をほうふつとさせ…は、実はしなかった。いま気が付いたw 読んでる最中は「俺は何故『ファンタジックチルドレン』をちゃんと視聴しなかったのか」について考えていた。何故だ。

お話の鮮烈さ、イメージングの強さに関しては表題作が圧倒しているのだけれど、それでもクロニクルの中でマ・フが初めて遭遇した「ヒト」が人間でもなんでもないという(読者にはわかる)仕掛けや、クロニクル最終話「巡礼の終わりに」の主人公が表題作と同じ「紅葉」という名のキャラだった時には、なにかこうSF的なワンダーを感じたものです。

人工知性は人工的でない知性に対してどうふるまうのか、自然な知性は不自然な人工知性をどう扱うのか。これもまたSFの永遠のテーマで、ヒトびとはなかなか英知に辿り着くことはできないのでしょうね。

 

人工痴性ってどうかな(ヒドイ

森見登美彦「四畳半タイムマシンブルース」

 

 原案上田誠とあってなんじゃらほいと思ったら、「壊れたエアコンのリモコン*1を手に入れるためにタイムマシンで過去に行く」というお話の中核になるところが戯曲(後に映画化)された「サマータイムマシン・ブルース」のものなのね。上田誠という人はアニメ版の「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「ペンギン・ハイウェイ」で脚本を書いていて、いわば合作みたいな感じなのかな?その辺の事情を巻末解説にでも入れてくれれば面白かろうに、しかしそんなものは無かった*2

 

まあ下鴨幽水荘のいつもの面子がいつものようにドタバタする話です。えらくスムーズに読み終えたけどまあ、これはそういうものだろう。問題は「私」と明石さんを巡る物語が事実上完結してしまったことだけれど、それでも変わらずドタバタし続けるんじゃないかなあとは思う。

*1:念のため申し添えると壊れたのはリモコンである。日本語は難しい

*2:読んだのは紙の本だけど、kindleだって同様だろうと思われる

アガサ・クリスティー「五匹の子豚」

 

 クリスティーもまだまだ未読の名作がいくつもありそうで、ちょっと前にツイッターで好評が流れてくるまでタイトルすら認識していなかった1冊。16年前に起きた殺人事件の謎を、当時の関係者の証言と各人の綴った手記を頼りにポアロが真相を解明する。過去の事件を回想するタイプの作品というのはこれまでに「象は忘れない」*1を読んでいて、実は本作への言及もあったそうです。気づかなかったけど(笑)「無実はさいなむ」というのもあったけれど、これは「ドーヴァー海峡殺人事件」という映画でしか知らない。

ことばの節々や綾をほどいて人間心理の観点から事実を導き出すというのは、探偵というのはそこまで全能な存在なのか、提示された証言や文書はどこまで信頼がおけるものなのか。というような疑問が、実は読書中には生じていました。なるほど「後期クイーン的問題」みたいなことが取り沙汰されるわけだなぁとか思ったりしてね。それでも、読者の前に真犯人が提示されるその瞬間とラストの余韻を感じるに、その味わいと揺さぶられる感情こそがクリスティーを「ミステリーの女王」として多くの人々に愛されている所以なんだろうなあと思います。米澤穂信のミステリーが真実とか謎解きよりももっと別のものを重視している(ように感じる)ことと、少し似ている。真犯人も被害者も、どちらもその生き方、人物の在り様が胸を打つのです。

例によってタイトルはマザーグースなんだけれど、別に見立て殺人ではないし正直そこはあんまり機能していないように感じけれど、三部構成の第二部がすべて関係者の手記で構成されているというのはユニークでした。ドラマの「名探偵ポワロ」ではどう処理したんだろうか?

H・P・ラヴクラフト「狂気の山脈にて」

 

 「インスマスの影」*1に続く南條竹則編訳によるラヴクラフト作品集第2巻。表題作の他「時間からの影」の長編2本と「ランドルフ・カーターの陳述」「ピックマンのモデル」「エーリッヒ・ツァンの音楽」「猟犬」「ダゴン」「祝祭」の短編6本による構成。巻末解説ではこれらの収録作品を”クトゥルー神話の初期段階” ”集成期の傑作” ”あとから神話に組み入れられたもの” の3つに分類しているけれど、読んでいて感じたのは必ずしもクトゥルー神話というラベルでくるむ物でもないよなとか、そういうことかな。

「狂気の山脈にて」で、いかに此処が狂気の山脈であると説いてもそこに生息していた古えのものたちは狂ってなどいないし、太古の彼方から地球の諸文明に手を(いやさ触手を)伸ばしてくるイスの大いなる種族も邪悪な存在ではない。どっちかというとこれらはコミュニケーションギャップあるいはディスコミニュケーションの話ではないだろうかと、そんなふうに感じるのは自分がいまの人間だからであって、執筆当時の社会や人々あるいは当の本人にとっては、もっと大きな衝撃力を以って受け止められるものなのでしょうね。

しかし「ランドルフ・カーターの陳述」とか「猟犬」は少女マンガでもイケそう。むしろBL風味でですね。などと感じるのも自分がいまの人間だから(ry

 

もはや古典であるラヴクラフトの作品をいまの時代に新訳というのは意欲的な行為だけれど、既にミームと化している表現を書き換えるというのはまあ、難儀なことだなぁと「ダゴン」のラストを見ながら。

 

ああ「クトゥルーのはららご」という表現は久しぶりに目にしました。懐かしい古えの記憶だ…