ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

アニー・ディラード「本を書く」

タイトル通り「本を書くこと」についての本だけれども、この本を読んだからといって読み手の執筆能力が向上したり、行き詰まっていた原稿に突破点を見いだせたり、喪われた執筆動機が再発見されるようなものではない。

 

いわゆるハウツー本ではない。

 

原題を”The Writing Life”という。書く生活、生きることは書くこと。著者アニー・ディラードは(このひとのことは今回初めて知ったのだけれど)ネイチャーライティングと呼ばれる種類の文章をものする書き手で、

 

ネイチャー・ライティングとは何ぞや?

 

ja.wikipedia.org

 

フムフム「自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考」というのがどうもいちばんそれっぽいなあ。つまりこの本は「自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考の本を書く人が、本を書く生活について書き表したもの」なのです。わー、ブンガクテキですよ。

 

文学だってぇ!?と驚くことはないし怯えることもない。文学とは夜の間にあなたのベッドの下に潜り込む怪物ではないし、通勤電車であなたを圧し潰そうとする世間の脅威でもない。もう少し人間と仲良く出来る存在なのだ。

 

本を書く生活。そうね、この本の内容はその多くが本を書いていた時の生活の節々で感じたこと、考えたこと、身の周りで起きていたことの記述で、総じてそれらはストイックで求道的ではある。狭い小屋を書斎に思いの丈を記して述べるという点では、そういえば本邦にも一畳四方で思いの丈を記した人がいましたね。アレに近いのかな。読んだことないんだけどなアレ。だから果たしてこれが小説に関するエッセイなのかといえば、ややためらいもあるけれど、それでもやっぱりページをめくればモノカキや本読みをわくわくさせるような文章がちりばめられているのです。

 

あなたの手の内で、そしてきらめきの中で、書きものはあなたの考えを表現するものから認識論的なものに変わっていく。新しい領域にあなたは興奮する。そこは不透明だ。あなたは耳を澄ませ、注意を集中させる。あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く置いていく。

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生の方を好む。人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。書きものはしょせん書きものにすぎず、文字もまた同様である。それはもっと繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――そしてモラルと感性にのみ訴える。あなたが今しているこの書くということ、あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、他の人にはほとんど聞こえないのだ。

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、本を読むのか。それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。心細いものだ。だが、われわれ自身のものである。私の意見では、本が文学的であればあるほど、つまりより純粋に言語化されていて、一文一文創り出されていて、より想像力に満ちていて、考え抜かれていて、深淵なものなら、人々は本を読むのだ。本を読む人は、とどのつまり、文学(それが何であろうとも)好きな人々である。彼らは本にだけあるものが好きなのである。いや、彼らは本だけがもっているものを求める。もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。彼らは本を読むほうが好きなだけだ。

 

うむ。わくわくするな(`・ω・´)

 

ところでこれらの引用は、すべて本書の第二章から取っています。ほかにも第二章はいろいろと示唆に富んだ文節がいくつもあって、この本いちばんの真髄というかキモのようなパートのように思う。そして実はこれ原書だと第一章で冒頭に掲げられていたものを、翻訳するにあたって「日本の読者はまず日常の話題から入って本質論に移るという書き方を好む傾向がある」とかで順番入れ替えてるそうで。

 

…そうなの(´・ω・`)