ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

「魔女見習いをさがして」見てきました

公式。 おジャ魔女どれみ20周年記念作品というわけで、20年というのもあっという間ですね。当時はまだ20代で、アーマーモデリングも隔月刊でした(関係ない)。

 

特にネタバレがどうこうというタイプの映画ではないと思うのですが、念のため続きは隠しておきます。

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シオドラ・ゴス「メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち」

まーイマドキなお話…ですね。19世紀のイギリスを舞台にジキル博士の娘メアリ・ジキルと、彼女の周りに集う「マッド・サイエンティストの娘たち」という設定はたしかに秀でたものがあるけれど、彼女たちが何をするかと言えばシャーロック・ホームズと協力してホワイトチャペルの連続殺人の謎を追う、というのはちょっとベタ過ぎないかなあと(笑)3部作の第1巻でまだキャラクター紹介の面が強いにしても、スーパーヴィクトリア大戦みたいなお話も、かの有名なキム・ニューマンの「ドラキュラ紀元」はじめ切り裂きジャックを扱った作品って多いからなあ…

キャラクターはね、実際魅力的です。ジキルではなく「ハイド氏の娘」として現れる腹違いの妹ダイアナ(ロウワ―少女)、原典通り「ラパチーニの娘」であるベアトリーチェ(ポイズン)、獣人の島の生き残りである「Dr.モローの娘」キャサリン人類ネコ科)、怪物の花嫁として死から蘇った「フランケンシュタインの娘」であるジュスティーヌ(巨女)など個性的な面々…のなかで、メインヒロインのメアリだけが普通に普通の人過ぎてそこは弱いんだけれど、厨房メイドのアリスが可愛いので全部許す。可愛いは正義。

「アテナ・クラブ」を結成することになるそれぞれのヒロインたちは、それぞれ古典小説を出自に持つのだけれど、それぞれがそれぞれに男性に傷つけられたり裏切られたり捨て去られたりした過去を持つ。ジェンダーというかフェミニズム小説みたいな感はあり、だからこそだと思うのだけれど、古典小説を出自にする「彼」を悪漢にしちゃったのはまあどうなんだろう?巻末でエクスキューズは入れているけれど。 

本文は事件の回想をキャサリンによる執筆で著わしたもの、という体を取っていますが、ところどころでというかしょっちゅう、その原稿を見ている他のメンバーからのツッコミが入ってきます。慣れると面白いけど当初鬱陶しかったのは確かだw

まだまだ謎めく「錬金術師協会」の存在と言い、周辺人物がチラホラ顔を出す割りに当人が姿を見せない古典小説のキャラ(Dで始まる人、人じゃないけど)など気になる要素はいくつもあり、全3巻刊行されると良いのですがさてどうだろう?

ユッシ・エーズラ・オールスン「特捜部Q ―アサドの祈り―」

 

特捜部Qシリーズ第8巻。これまで様々に示唆されてきた特捜部Qの主要メンバー、アサドの過去が明らかになる一冊。シリーズ開始当初よりハードな内容、陰惨な事件を提示し続ける特捜部Qだけれど、今回はアクション方面でもハードで陰惨な一面を提示する。

詳しい内容はamazonのリンク先でも見ていただければと思いますが、これまで自分は特捜部Qシリーズを少なからず「今のヨーロッパ社会」を描写するものとして受け取って来ました、今回は特にその傾向が強いように思います。今のヨーロッパ社会が何を考えているのか、何を恐れているのか。そしてそれはヨーロッパだけでなく欧米むしろ日本、元より自分自身でさえも同じようなことを考え、同じようなものを恐れている。そういう現実に直面させられたような気分になる。

たぶん自分も日本も欧米社会も全部が全部、この30年間に手ひどい失敗をしていて、いつかそのツケを払わされる日が来ることを恐れているのじゃあるまいか。

お話は解決するけれど、解決した後はどうなるのだろう?シリーズは全10巻の予定だというけれど、今後アサドのキャラが持つ「謎」の魅力は減ってしまうだろうし、「釘打ちステープル事件」とハーディの回復についてはやや引き延ばし過ぎという気がしなくも無いのですがさて。

 

ああそうかアフィーフの存在がカギを握るのだろうな… 

伊能高史「ガールズ&パンツァー劇場版 variante」6巻

廃遊園地での戦闘に移行する第6巻、観覧車先輩大活躍でアリマス。例によって本編では描かれなかったキャラの掛け合いが楽しいもので、レオポンとアリクイチーム主導によるあんこう音頭とかは「音」も聴こえてきそうではある。

知波単のキャラは最終章に続くというかそこからフィードバックされてるところがあって、細見と玉田の会話なんかはそんな感じだ。

大体に於いては劇場版アニメの流れそのままなのだけれど、今巻ラストでサンダースのおケイさん<だけが>退場するところは明確にオリジナルとは違えて来ていて、今後ラストに向けての差異に注目したい。

ところでこのエントリーは大洗の江口又新堂で買った本をシーサイドステーションのARISE CO_WORKING (廣岡さんとこだ)で読んでそこで書いてるんだけど、114ページを見るかぎり1年生チームのあやちゃんは大洗サーバーに干渉できるセレブラントのようで、やはりガルパンとゼーガのコラボは全然オッケイだと思。

(´・ω・`)

柴田勝家「アメリカン・ブッダ」

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

アメリカン・ブッダ (ハヤカワ文庫JA)

 

近年名を馳せる事多い戦国武将もといSF作家柴田勝家(本名:綿谷翔太)*1の短編集。民俗学とSFの融合というのはこの人の作品によく掲げられる惹句で、成程そういう作品が多いというか、大体どれもそうか。なにしろ南方熊楠孫文と組んで19世紀末ロンドンに現れた天使の謎を解く、なんて話もある(「一八九七年:龍道幕の内」)。一方で「邪義の壁」は折口信夫的な民俗学シチュエーションで旧家の(自分の家系の)秘密を解き明かしていく、SFというよりサイコ(キチガイという意味でのサイコだ)ホラーで、こういう物も書くんだなあと初出を確認したらナイトランド・クォータリーだった。こういう物も書くんだなあ。国際リニアコライダーが時間に干渉して個人の過去を改変する…と思わせ実は、な「鏡石異譚」、物語という概念が一国(と個人)の社会を転覆せしめる「検疫官」など様々な作風を読むことができます。

雲南省スー族におけるVR技術の使用例」は、実はこれが個人的初柴田勝家だった作品で、S-Fマガジンの2016年12月号(VR/AR特集号)で読んでいます。仮想世界に耽溺する民族をレポートする様で、実は現実と仮想の担保を読者への挑戦のようにまとめた一本。初出以来いくつものアンソロジーに収録された傑作で、今後も読み続けられる一本でしょう。

 

ところで実は、小説以外でいうと個人的初柴田勝家はそのS-Fマガジン2016年12月号に載っていたアイドルマスターの(デレマスの)VR動画体験レポートの方を先に読んだので、柴田勝家と聞くとどうしてもVRゴーグルサイリウム装備で架空の舞浜アンフィシアターに降り立ち「Fu!Fuuuuuu!!」「イェェエエ!ヴォイッ!ヴォイッ!」ってやっている人。という印象がある。第一印象って強いなあ。

 

閑話休題

 

そして表題作「アメリカン・ブッダ」ですが、こちらはまるで「雲南省スー族…」を受けた返答のような、VRの側にいる人(人々)が現実からアプローチされるお話。仏教を信じるインディアンアゴン族(阿含だよなー)のミラクルマンよりも、「大洪水」という極めてキリスト教的(旧約聖書的)なディザスターに見舞われてVR世界に逃避した白人社会が、理想的な仮想空間から現実の世界へと回帰する話なんだな、そういう印象を受けます。まさにいま、災厄に覆われた世界の中で描かれた物語だなという気はする。(「検閲官」のテーマも実に今日的であるけれど、こちらは2018年の作品)アメリカ社会というのを白人とインディアン<だけ>で記すのはいささか危険ではあるけれど、やはり対比されるのはVRとRであって、ブッダとかキリストとかはうーんたぶんこれデコレーションなんだろうな…

 

ズバリいうとゼーガペインのクロシオ先輩みたいな、そういう立場な人がどうやって不便な現実に帰っていくのか。というお話なのだろうなーと。柴田勝家先生もきっとゼーガペイン見てるだろうと思うんだよね。2016年12月号にはゼーガの記事もあったし、舞浜アンフィシアターで嬌声をあげる人ならきっと…

*1:池澤春菜嬢による巻末解説に基づく

ディーリア・オーエンズ「ザリガニの鳴くところ」

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

 

 

ミステリ…なのかなあ。アメリカ、ノースカロライナ州の湿地帯で不審死を遂げた遺体が発見される1969年の事件が捜査され容疑者が逮捕されるパートは確かに推理小説(風)ではあるのだけれど、そこに交差されるのは1952年から語り始められる、家族に捨てられひとり孤独に生きて行かざるを得ない "湿地の少女" ことカイアの物語で、こっちの方がメイン。沼地に小屋を建てて暮らす「貧乏白人(ホワイト・トラッシュ)」一家の末娘として育ち、父親の虐待により崩壊した家族は次々に家庭から脱出し、やがてカイアは父と二人きりで暮らすこととなる。成長するにつれて起こる様々な出会いと、父親も失踪し遂に訪れたほんとうの孤独と、美しい湿地帯の自然に囲まれて、時には人を愛し、時には人に裏切られ生きていくカイア。そういうお話。

2つのパートはそれぞれ短い章立てでさかんにフラッシュバック/カットインされて緊張感を高める構成で、捜査が進めば当然のようにカイアは容疑者として逮捕され、過去と現在は一体となって法廷の場へと繋がっていく。そこでもやっぱり短いカットが緊張感を増していく訳なんですが、実際行われている裁判はあやふやな目撃証言と不確かな証拠提示だけのgdgdな内容ではあるのでw 普通のペースでだらだら書いちゃうとクライマックスでもなんでもない。それで結局カイアはどうなるのか、事件の真相は…

 

ネタバレもあるしそこは書かないけれど、事件の真相そのものには、やっぱり大した意味があるとは思えません。むしろ虐待とか貧困、格差という現代でもストレートに通じるテーマを、しかし現代を舞台としないことによってワンクッション置いているのだろうなーと、そんな気はします。むしろ現代でやると生々し過ぎたり、却って反発を買うようなこともあるかとは思う。(貧しくても心清らかな人々を現代に出すのは余りに噓くさいとか、そういう懸念もあるかもだ)

 

読みやすくて面白かったけれど、こういうお話でもなかなか黒人は主役になれないのだなあとも考えさせられた。