ひとやすみ読書日記(第二版)

最近あんまり読んでませんが

高島雄哉「エンタングル:ガール」文庫版

 

WEB版*1、書籍版*2に続く3度目の「エンタングル:ガール」。

 

願わくは本作が、読まれるたびに状態が移り変わる、量子的な『エンタングル:ガール』であらんことを。そしてそのたび――ループごとに――新しい面白さが生じるとすれば、もはや何を望むこともない。

(単行本版あとがきより)

 

その通り3度目の今回も、新しさは付与されていた。文庫化にあたって全編改稿、確かに前回のループとはそこかしこに違いが生まれている。似ているようで少し違う、これは確かにゼーガペインの物語だった。これまでずっとゼーガを追ってきた人なら今回の文庫版と前回の単行本を読み比べて、差分を見つける遊びが楽しめると思います。個人的には天音先輩のドローン潜水艦スコーピオン号と「渚にて」の件が、前回は「説明」だったのに、今回はより自然な描写と会話で記述されていたところに感銘を受けました。これは文庫サーバーに合わせて最適化され、さらにバージョンアップされたいわばエンタングル:ガール 1.2.1 のような存在でしょうか。

ストーリーの展開は基本書籍版と変わらないのですが、ポストクレジットシーンとして*3書き下ろされた「ホロニックワールド・エンタングルメント」ではもう少し先、TVシリーズ最終回よりもちょっと先に位置するであろうカミナギ・リョーコが描かれます、その在り様とやや大人びた視線は、いまの花澤香菜さんが演じるいまのカミナギを見るようでもある。そしてたぶんこの章は、次のエンタングルへの架け橋でもあるのだろう。

 

うむ。

 

長年ゼーガのファンを続けてきて良かった。そして先に「本を書く」読んでいてよかった*4。たしかに、本にだけあるもの、本だけがもっているものが世の中にはある。たとえ映像作品を出発点としていても、文字でしか描き出せないものが、世の中にはあるのだ。

アニー・ディラード「本を書く」

タイトル通り「本を書くこと」についての本だけれども、この本を読んだからといって読み手の執筆能力が向上したり、行き詰まっていた原稿に突破点を見いだせたり、喪われた執筆動機が再発見されるようなものではない。

 

いわゆるハウツー本ではない。

 

原題を”The Writing Life”という。書く生活、生きることは書くこと。著者アニー・ディラードは(このひとのことは今回初めて知ったのだけれど)ネイチャーライティングと呼ばれる種類の文章をものする書き手で、

 

ネイチャー・ライティングとは何ぞや?

 

ja.wikipedia.org

 

フムフム「自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考」というのがどうもいちばんそれっぽいなあ。つまりこの本は「自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考の本を書く人が、本を書く生活について書き表したもの」なのです。わー、ブンガクテキですよ。

 

文学だってぇ!?と驚くことはないし怯えることもない。文学とは夜の間にあなたのベッドの下に潜り込む怪物ではないし、通勤電車であなたを圧し潰そうとする世間の脅威でもない。もう少し人間と仲良く出来る存在なのだ。

 

本を書く生活。そうね、この本の内容はその多くが本を書いていた時の生活の節々で感じたこと、考えたこと、身の周りで起きていたことの記述で、総じてそれらはストイックで求道的ではある。狭い小屋を書斎に思いの丈を記して述べるという点では、そういえば本邦にも一畳四方で思いの丈を記した人がいましたね。アレに近いのかな。読んだことないんだけどなアレ。だから果たしてこれが小説に関するエッセイなのかといえば、ややためらいもあるけれど、それでもやっぱりページをめくればモノカキや本読みをわくわくさせるような文章がちりばめられているのです。

 

あなたの手の内で、そしてきらめきの中で、書きものはあなたの考えを表現するものから認識論的なものに変わっていく。新しい領域にあなたは興奮する。そこは不透明だ。あなたは耳を澄ませ、注意を集中させる。あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く置いていく。

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生の方を好む。人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。書きものはしょせん書きものにすぎず、文字もまた同様である。それはもっと繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――そしてモラルと感性にのみ訴える。あなたが今しているこの書くということ、あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、他の人にはほとんど聞こえないのだ。

 

なぜ人は、大きなスクリーンで動きまわる人間たちを見るのではなく、本を読むのか。それは本が文学だからだ。それはひそかなものだ。心細いものだ。だが、われわれ自身のものである。私の意見では、本が文学的であればあるほど、つまりより純粋に言語化されていて、一文一文創り出されていて、より想像力に満ちていて、考え抜かれていて、深淵なものなら、人々は本を読むのだ。本を読む人は、とどのつまり、文学(それが何であろうとも)好きな人々である。彼らは本にだけあるものが好きなのである。いや、彼らは本だけがもっているものを求める。もし彼らがその晩映画を見たければ、きっとそうするだろう。本を読むのが嫌いなら、きっと読まないだろう。彼らは本を読むほうが好きなだけだ。

 

うむ。わくわくするな(`・ω・´)

 

ところでこれらの引用は、すべて本書の第二章から取っています。ほかにも第二章はいろいろと示唆に富んだ文節がいくつもあって、この本いちばんの真髄というかキモのようなパートのように思う。そして実はこれ原書だと第一章で冒頭に掲げられていたものを、翻訳するにあたって「日本の読者はまず日常の話題から入って本質論に移るという書き方を好む傾向がある」とかで順番入れ替えてるそうで。

 

…そうなの(´・ω・`)

梶尾真治「サラマンダー殲滅」

いま入手できるのは徳間文庫版なのですね。10代の頃に読んで大変面白かったものを、常々再読したなーと思って漸く。図書館の書庫から借り出した朝日ソノラマのハードカバーによると初版刊行1990年で、かれこれ30年以上経っていたのか…

すごく勢いのある作品で、文庫でも結構な厚みの上下巻、ハードカバーだと2段組みで525ページのボリュームをまったく感じさせない。ある種王道なストーリーも(それがどこか陳腐でクラシカルな匂いをさせるところも)強く印象に残っている。当時まだSF作家クラブの会員によってのみ投票されていた第12回日本SF大賞を受賞していて、成程作家であればこういう「書きたいけれどなかなか書けないような話」を評価するものなんだろうなと、思ったものです。

いま読んでも全然古さを感じない、むしろイマドキの方が多くの読者に感銘を与えることができるかもしれない。ライトノベルが10代の読者だけのものでは無くなってずいぶん経つけれど、このライトノベル前夜の時代に刊行された「テロ組織によって夫と子供を失った平凡な主婦が、自らのアイデンティティを喪失しながらもすべてを復讐に捧げる話」というのは、現代の20代、30代の読者にも十分受け入れられるものだと信じる。女性主人公のアクション作品でクライマックスはロボ戦というのも、ずいぶん時代を先取りしてたんだろうなあと思うことしきりで。

マトリョーシカ」という外部機構を次々にパージして段々と小型になるロボットはいわば「逆ゴーディアン」みたいなメカなのだけれど、それが恒星の輻射熱に至近距離で晒される超高温惑星のトワイライトゾーン(要するに太陽系の水星をもっと地獄めいた環境にしたようなもんです)で戦闘する為…という設定だけではなく、主人公神鷹静香が目的を遂げるために何もかも無くしていくというストーリーやテーマに沿った、極めて物語上の要求に応じたロボットだったのだなと、これは再読して漸く気が付きました。なかなか無いよねそういうものもね。

復讐を遂げるために代償として記憶を無くしていく、それはちょっと「テッカマンブレード」に似ている。無論順番は逆でテッカマンブレードがサラマンダー殲滅に似ているのだけれど、30年経ってサラマンダー殲滅を再読して気が付いた。目的を遂げるために何もかも無くしていく苛烈さ持つ作品を、俺はもうひとつ知っているぞ。

 

それは

 

 

ゼーガペイン」です。

 

またかよ!と思われるだろうが特にゼーガペインADPの情報爆弾とかいやむしろ記憶を無くして自我が崩壊しながらもなお人類の為に戦う既婚女性というのはこりゃ間違いなく

 

ゼーガだ。

 

本編で2機出てくるマトリョーシカも、静香が乗り込むマトリョーシカαのほうは2人乗りの複座機だしで実にゼーガでありますよいやマジで。マジでマジで。

静香とペアを組む夏目郁楠という男性キャラクターが、これが登場直後は微妙に嫌なヤツなんだけど(笑)、だんだんと心を変えて行き着いた先に発する言葉が

 

すごくいいのよ。

 

台詞自体は実にありきたりで、陳腐でクラシカルでもある。いまここでそれを抜き出してかくかくしかじかです。と書いてもなんら感銘など受けないと思うのだけれど、長大なボリュームと苛烈なストーリーの終着点に置かれると*1、非常に効果的で、この台詞を読ませんがためにそれまでの積み重ねがあったんだろうなと、初読時にも30年経った今でも同じことを考える。こういう話って書きたくてもなかなか書けるものではないでしょう。

 

自分の気持ちに正直に生きていけばいい。約束で誰かのものになるなどということは、人間にはない。本当に好きな人を探せばいい

 

それでアレね、30年も経つと初読時とは違う感慨を抱くこともあってさ、脇に配されたヨブ・貞永とラーミカ・由井のコンビ、冴えないオッサンの治安官と超能力美少女のコンビにすごく共感する。

 

というかオッサンに共感する(´・ω・`)

 

物語のメインストリームとは別に、随所にいわば挿入される様々なキャラの在り様が悲しかったり切なかったりちょっと笑ってしまったりで、そのあたりはアクションもコメディもラブストーリーもなんでも書けるカジシンの面目躍如といったところでありましょう。何年か前に「黄泉がえり」でブレイクしてからこっち「泣ける作家」だって評判ばかりが先に立つけど、それだけじゃあないんだぜ。

 

且つてNHK-FMでラジオドラマ化されたそうだが残念ながら未聴取で、思いのほかビジュアル映えする内容でもあるのだから、いまからでも遅くないからどこかでアニメにしてくれまいか。無理か…

 

こんだけ長文書いてて、作中結構重要な事象である「空間溶蝕」についてひと言も触れないのはどういうことだよと思いつつ(´・ω・`)

*1:厳密にはエピローグがあるので最後の台詞ではないのだけれど

ジョー・ヒル「怪奇疾走」

全13本、かなりのボリュームとなる短編集。グロテスクなものからハートフルなもの、様々な作風のものが収録されてジョー・ヒルの多彩さが伺えます。「よく出来た短編集は作家のポートフォリオである」学説*1を補強する良い見本だ。学説ってなんだよ。また2本は実父スティーブン・キングとの共作で、どちらも先行他作品へのオマージュみたいな内容ではある*2。序文と著者本人による解題(作品ノートと謝辞)にかなりのページが割かれていて、そこに書かれた生い立ちや成立過程を見ると、なんというか伝統に乗っているのだなーと。スティーブン・キングが「レイ・ブラッドベリの子供」だったような意味で、ジョー・ヒルは「レイ・ブラッドベリの孫」なのかも知れません。ブラッドベリだけじゃなくてね。

先行他作品への敬意に溢れた作品が古臭い内容かと言えばそうではなく、いずれも現代社会に合わせたブラッシュアップは行われているわけで、いずれ21世紀を代表する怪奇小説作家として伝統の上に乗るような人なのかも知れません。しかしぞれぞれの作品が題材とするいわば「アメリカの病」みたいなものも、現代社会に合わせてブラッシュアップされているのだなーと、思うところで。帰還兵ネタに困らないというのも、それは困りものだろうな。

 

以下、全てでは無いけど気に入った作品をいくつかピックアップしてみる

 

・「遅れた返却者」

本書収録作品の中ではこれがいちばんよかった。ちょっとジャック・フィニィのようでもあるノスタルジックさで、移動図書館の運転手兼貸し出し職員となった主人公のまえに現れる、過去からの返却者。返却期限を過ぎたまま亡くなってしまった人たちを救済する奇跡と、あるベストセラー作家に与えられた、やはり救済の物語なんだろうなあこれ。過去から返却される本として真っ先に出てくるのがハインラインの「ルナ・ゲートの彼方」だったので得点爆上げですw

 

・「階段の悪魔」

説明するより見てもらった方が早いけれど、タイポグラフィを用いた作品。

f:id:abogard:20220318135258j:plain

イタリアの山間部を舞台に山道の階段を登ったり降りたりしながら展開していく物語で、斜面の九十九折りをそのまま文面に表わしたような形式です。こういうのはよく「実験的」と評されるけれど、もうずいぶんと昔から色々な作家がやってきたことではあるし、もはや実験の段階はとうに過ぎているように思われる。それで、話の中では主人公は山道を登り降りするのだけれど、文章の配置は一貫して「下」に向かって降りていて(冒頭付近に一か所だけ上に登るところがあるので、全体が下りだというのはよくわかる)、最後まで読むと「山道」ではなくて人間の「魂」が堕落していく話だったんだなーとわかる仕掛けになっている。

 

・「死者のサーカスよりツイッターにて実況中継」

ツイッターの型式を踏襲した小説というのは日本では文フリなんかでも売ってるだろうけれど(笑)、女の子がゾンビサーカスに迷い込んで襲われる様を「実況」するというのはあー、それ自体もいくらでもありそうなスタイルではあるけれど、ウェイクフィールドの「ゴースト・ハント」*3では怪奇の実況をラジオがやってたんで、そのへんの違いを比べると面白いなーと。

 

・「シャプレーン湖の銀色の水辺で」

レイ・ブラッドベリの「霧笛」へのオマージュとして書かれた恐竜もの。主人公の視点を幼い少女にすることによって、非現実的な物語にうまいこと足場(ってなんだ)を組めているように思う。そして一転してラストに残酷さを持ってくるところもまた、単にブラッドベリの追従者ではないなーと。それでこの作品、Netflixでドラマ化されてるんですって。

 

・「解放」

旅客機の機内という密閉状況の中で、超常現象ではなく人間が起こすものとしての恐怖を、乗員乗客の様々な視点から描いたもの。いかにもポスト911でありながら、そして破滅的なエンディングを迎えながらも(タイトル通り)読了時に一抹の解放感を受けるのは腕前ですよねやっぱりね。このラストと、雲海の下から無数の「雲柱」が伸びてくるシーンを思うに、これスティーブン・キングの名作「霧」のオマージュなんだろうな。

 

他にも良い作品、気づいた点などありますがまあこのあたりで。

*1:https://abogard.hatenadiary.jp/entry/2018/07/25/210236

*2:実際、そういうテーマのアンソロジー向けに書かれた作品もある

*3:https://abogard.hatenadiary.jp/entry/20121028/p1

ラヴィ・ティドハー「完璧な夏の日」(上)(下)

 

1930年代、突如として世界各地に現れた超人(オーバーマン、ドイツ語ではユーバーメンシェ)たちによる、第二次世界大戦への参入とその後の世界の争乱…というか「ヒーローと現代史」ものか。巻末解説にもあるようにこの分野は「ウオッチメン」が嚆矢でその他にもいろいろ、「ワイルド・カード」のシリーズだとかアメコミでも「マーシャル・ロウ」がやってた*1なあとか思うわけです。

本作では超人たちが誕生した理由がドイツ人科学者による量子力学実験の副産物というきわめて人為的な、いわば事故の結果であったり、その後各国政府に軍事利用されても歴史の流れは史実とほぼ変わっていなかったり、超人たちが歳を取らない設定で結果苦悩を抱え込むことになったりと、能力者の悲哀みたいなところにスポットが当たっているように思う。先行作品との違いはそのあたりかな。21世紀に書かれた作品なので、人類の闘争の歴史がオサマ・ビン・ラディン911にまで達しているのも、先行作品との差異ではある。ウオッチメンの舞台は米ソ冷戦までの時代だったけれど、その先までコマを進めることができる。

 

とはいえ、現代を舞台にして主人公フォッグとオブリヴィオンの回想がモザイク状にフラッシュバックされる構成なので、あんまり年表というか編年的な感慨にはならない。むしろ過去と現在を行ったり来たりで揺れ動く視点の中で、一貫して変わらないものがあり、それが

 

 

だと、まあそういう話かなあ。フォッグのゾマータークに対する愛も、オブリヴィオンのフォッグに対する愛も、どこか一方通行で報われない感があるのは、むしろそれがいいよなーとか。

 

それでも私は思うんです。時として人間は、自分は誰かを愛していると実感しなければいけない、と。

 

いつの世でも、背を向けるときが別れのときだ。そのことをわれわれはよく知っている。われわれもそうやって、心の傷を増やしてきた。

 

考えてみるとこれBLSFでもあるな。いや中年男性だけどなw

 

アメリカの超人たちがX-MENみたいな絵に描いたようなアメコミのヒーロー(的な能力者)であったり、ナチスドイツやソ連の超人たちはヴィランの様である一方で、主人公サイドのイギリスの超人たちはひたすら地味な能力を駆使するところはなんかそれっぽくて良い。能力というか、そういう「運用」をされているのだけれど。

 

文体もちょっと変わっていて、会話はダッシュを使うか地の文の中に記述され、語り手は「われわれ」として記述されるけれどその「われわれ」とはいったい何者なのか、そこは記されない。まあそれはきっと「われわれ」なんでしょうねえと思うのですが。

 

砂川文次「小隊」

これ初出は「文學界」なのか。ということは純文学として受け止められた作品というわけですね。刊行当時、約1年前にamazonに掲載されたレビューをみると現代日本自衛隊とロシア軍が戦火を交えることが「不条理劇のようだ」と評されているけれど、1年が過ぎプーチン戦争*1が始まった現在では、本書の内容は地球の向こう側で起きていることの投影であり、現在の我々が暮らしているこの日本と地続きで繋がるものです。

ストーリー、展開についてはまあ、あまりこの言葉は使いたくないけれど「リアル」と呼ぶにふさわしいものでしょう。陸上自衛隊普通科小隊長の目を通じて描かれる、ロシア軍との壮絶な地上戦闘の、その閉塞感、息苦しさ、不快、恐怖などが鮮烈な文章を通じて読者の眼前に展開する。実質二昼夜ほどの時間が、章立ての一切ないスピーディな語りで繋がれていくのは良かった。

そして元自衛官であるという経歴から、やはり会話の端々や通信符牒に見られる「リアル」さが、物語への没入感を誘うのだろうと思う。一見すると映画的というか劇画的*2に思えるかもしれないけれど、やっぱりこれは文字で、活字で作られた世界だからこそ、「リアル」を感じてその先を思う、そういう感慨を得られるのだろうと思う。

 

一年後この記事を見返したら、自分はどんな気持ちになるだろう?

 

*1:2022年2月24日に勃発したロシアによるウクライナ侵攻を、本ブログではこのように呼称します。

*2:小林源文とかね

ユーリィ・イズムィコ「恐ロシア航空機列伝」

岡部ださくかっ!とツッコミを入れてしまった全裸中年男性あるいはコスメ女子@美容垢であるところの小泉悠氏によるヒコーキ本。全然知らなかったけど「航空情報」で連載してたのね。構成から何から「世界の駄っ作機」を予感させたけど、御本家のあちらよりは文章も堅いしマンガ的なイラストより公的な写真や図面が多く掲載されているしで至って真面目な内容か。帯(のように見えるけど実は表紙デザインの一部である)にはかなり煽情的な文言が並んでいるけれど、実際読んでみると採算性や実現性や人道面やら、ソ連の人々も真面目に考えてダメな物にはダメと言ってたんだなーという感慨には浸れます。時の権力者の鶴の一声でボツ。みたいなのもあるんだけれど。

鉄のカーテンの向こう側で計画されてた機体群ですからして、ちょっと異世界というかSFじみた印象を受ける飛行機も多いです。アニメや漫画などのネタ本に使うのもいいんじゃないかしら。実際エヴァ序に出てたヘリもあるそうで。

 

とはいえ過去の計画だから、未来的ではないんだよな。そのへんの匙加減は微妙かしらん。